音楽理論 ざっくり解説

音楽理論をざっくり解説します。最低限のポイントだけ知りたい方へ

中世前半の音楽 前編

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今回は10世紀頃までの西洋音楽の歴史について勉強しましょう。

現代の我々がイメージするあの「音楽」は、どのような紆余曲折を経て現在の形になったのか。その辺りを中心に解説いたします。

冒頭から恐縮ですが、この辺りの時代については本によって書かれていることが結構異なっており、私もどれを信じればいいか分かっていないということを最初にお断りしておきますw


音楽理論の基礎(旋法や音程など)は、古代ギリシアで作られました。詳細はこちら「古代ギリシア音楽 前編」をご覧ください。

 

とても紀元前の人が考えたとは思えない高度な理論ですね。

この理論はローマ帝国へと受け継がれます。ローマ人は金管楽器の発展や大型劇場の建設など、演奏面で多大な貢献をしました。

 

一方、ローマ人は数学や哲学は苦手だったらしく、理論面での発達はありませんでした。(発達したけれど資料が残っていないだけ、との説もあり)

 

その後、395年にローマ帝国は東西に分裂。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により476年に滅亡。

異民族国家の成立やキリスト教的世界観などによって、ヨーロッパの文明は長らく停滞します。

 

クラシックの第一歩

では、その頃の音楽はどんなものだったのか。

この時代にも世俗曲(ポップス)は当然存在していたわけですが、残念ながらそれについての記録は全くないと言っても過言ではありません。

当時はまだ楽譜という概念が存在せず、そもそも庶民は文字の読み書きすら出来ませんから、楽曲を書き残しておくことが出来なかったのです。

 

一方、教会では聖歌が歌われていましたが、こちらについての記録は多少残されています。非常に少ないのですが、ポップスよりはマシ。

 

キリスト教は、各地でその勢力を拡大させていく中で、教会の建立やミサの成立など、徐々に形を整えていきました。(ただし、一般庶民にまでキリスト教が浸透するのはもう少し後の時代らしい)

それと共に、各地で沢山のローカル聖歌が誕生したのです。

キリスト教において「神への賛美や信仰心を歌で表現する」という文化がいつ頃から生まれたのか、正確なことは誰にも分かりませんが、一説によるとキリスト教成立直後(1~2世紀頃)には既に存在していたのではないかとも言われています。

 

古代のユダヤ教も聖歌という文化を持っていたようなので、その一派であるキリスト教が誕生直後から聖歌を歌っていたとしても何も不思議ではありません。

(この聖歌が理論面・演奏面でどんどん発展していき、最終的に我々がイメージする「クラシック音楽」に進化するわけですが、それはまだ遠い遠い未来のお話…)

 

ちなみに、この時代の聖歌の特徴としては単旋律(ハモリ無し)であること。それから楽器の伴奏も使われず、アカペラで歌っていたこと。

さらに、リズムもきっちり決まっているわけではなく、メロディは言葉そのもののアクセントに基づいています。

音源が残されているわけではないので正確なことは誰にも分かりませんが、もしかしたら最初期の聖歌は歌というよりは言葉に近かったのかもしれません。

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ボエティウス

ローマの哲学者・政治家であるボエティウス(480頃~524頃)は、「De institutione musica」(音楽綱要・音楽教程)という理論書を著しました。

これはオリジナルではなく、ピタゴラスやプトレマイオスの理論をラテン語に翻訳したものなのですが、これによって古代ギリシアの理論が中世ヨーロッパに紹介されることとなりました。

(けっこうなボリュームの本なのですが、大部分が消失してしまったようです。もしかしたら消失部分にはバリバリのオリジナル理論が書かれていたかもしれませんね)

 

もちろん、当時のヨーロッパで音楽理論書がこの一冊しか無かったわけではありませんし、この本の内容も時代とともに解釈が変わっていくわけですが、とにかくこの本がバイブル的な存在として長い間君臨しました。

 

ただし、当時は理論上の音楽と実際に演奏する音楽の間にはけっこう乖離があったようです。

紀元前のピタゴラス音律「ピタゴラス音律」同様、理論が存在しているからといって、実際の音楽がそれに則って書かれていたかどうかは微妙……


本の内容としては、冒頭のリンクで紹介したようなもの(テトラコルドとか旋法とか音程など)や、音楽家としての心構え・哲学などが長々と書かれています。

 

現代の我々にとって音楽理論書と言えば、コード進行とかスケールとか楽典について書かれているイメージですよね。

しかし当時は楽譜も和音も調性も未発達だったこと、それから音楽は数学や天文学の仲間であると考えられていた(リベラルアーツ)ことから、現代の音楽理論書とは大きく異なります。

 

「レ旋法は ”全半全” の音程から成るテトラコルドが2つ連なったものである。

1つ目のテトラコルドの最後の音と2つ目のテトラコルドの最初の音の間隔は全音分であり、2つ目のテトラコルドの開始音は最初の音(レ)の弦長を3分の2にした弦の音と等しい」

 

みたいな内容が延々と続きます。

私は英語版をほんの一部だけ読んだことがあるのですが、非常に退屈でしたw

これは中世ヨーロッパの音楽理論書の「あるある」で、我々がイメージするような理論書は、私の知る限りバロック時代くらいにならないと登場しません。

 

音名

古代ギリシア時代には音を物凄く長い名前で呼んでおりましたが、中世ヨーロッパでは徐々にアルファベットも使われるようになりました。

というか、古代ギリシア時代に既に(定着はしなかったものの)ギリシア文字で音を表す習慣はあったようなので、それがラテン語に翻訳されてアルファベットになったのでしょう。

 

私が読んだボエティウスの英語版では、シ音から順番にABC…と命名されていました。

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俺が知ってるABCと違う…(゚Д゚;)

はい、当初はA~Gで循環していたわけではなく、H以降のアルファベットをオクターブ違いの音にも構わず振っていました。

 

しかし古代ギリシア時代、既に「オクターブ違いの音は非常に性質が似ている。同じ音と考えても差し支えない」と言われていました。

違うアルファベットを振っているからと言って、当時の人がオクターブ違いの音を違う音だと思っていたわけではありません。

 

ちなみに、よく見て下さい。Jがありません。ラテン語のアルファベットにはJが無いのです。(UとWも無いらしい)

 

しかし、当時どの音をAとするかは人によってバラバラでした。

ABCだけでは伝わりにくいためか、ボエティウスも著書の中では、古代ギリシア式の長い名前・ギリシア文字・アルファベットを状況によって使い分けています。

 

旋法

ボエティウスの著書では、旋法はどのように書かれているでしょうか。

 

7種の旋法が存在する点、及び名前は古代ギリシアと同じですが、順番が違います。

ボエティウス版の旋法は低い方から順に「ヒポドリア・ヒポフリジア・ヒポリディア・ドリア・フリジア・リディア・ミクソリディア」です。順番は現代と同じですね。

しかし内容は全く違う。

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例えば、仮にヒポドリアを上のような旋法(Amと同じ)であるとしましょう。

すると、現代ならばヒポフリジアはロクリアと同じになるはずですが、ボエティウス版では、ヒポフリジアは全体を2度上げる。つまりBmになります。

同様に、ヒポリディアはC#m、ドリアはDm、フリジアはEm、リディアはF#m、ミクソリディアはGmとなっています。

(あと、オマケ旋法として「ハイパーミクソリディア」というものもあります。ハイパーは「超える」という意味ですから、ミクソリディアの上、つまりAmで、ヒポドリアと同じ)

 

つまり、音高によって名前が変わるだけで、中身は全く一緒。(厳密に言うと異なる点もあるようですが、私の英語力ではそこまでは分かりません)

 

ここで謎が2点残ります。

まず、なぜ旋法の考え方が古代ギリシアと異なるのか。ボエティウスが翻訳するときに間違えたのか、それともプトレマイオスの時点で違うのか。(おそらく前者)

 

もう一点は、当時はまだ絶対音高の考え方は無かったということです。

つまり当時の人にとってはAmもBmも一緒のはずなのですが、なぜそれらに対して別の名前を付けたのか。

 

楽器

この時代の楽器については、記録が少ないのでよく分かっておりませんが、世俗音楽ではハープ、バグパイプ、笛、ちょっと後の時代にはハーディ・ガーディなど、様々な種類の楽器が使われていたようです。

これらを用いたのはジョングルール、或いはミンストレルと呼ばれる大道芸人や吟遊詩人で、彼らは卑しい身分とされていました。

 

複数人で楽器を演奏する場合はどうでしょうか。

当時は和音の概念が未発達で、さらに楽器の製造技術が未熟で楽器ごとにピッチがバラバラだったため、ユニゾンすら困難でした。

つまり、現代人がイメージするような「アンサンブル」は不可能です。

 

ただ、古代ギリシア時代には既に複数人で演奏する文化が存在していたようですし、現代でも、アマゾンの奥地に住んでいるような原住民の音楽で、主旋律に合わせてもう一人がアドリブで(調もピッチも適当に)演奏する様子が見られます。

 

また、ハーディ・ガーディが使われていたということは(別の楽器でも)一人が主旋律を奏で、一人がドローンを奏でるようなこともしていたかもしれません。


では教会ではどうだったか。

先程、聖歌はアカペラで歌われたと言いましたが、教会では言葉(歌詞)を重要視していたため、言葉を発することができない楽器は価値が低いと考えられていました。

また、楽器を使った音楽は大道芸人を連想するため、世俗的・異教的であると考えられたことも理由の一つです。

 

一方、人間の息を用いるラッパや、同じように空気がパイプ内を通って音を出すオルガンは、人の声に準ずるとして、次第に教会でも使われるようになりました。

(宗教画でも、天使がラッパを持っている様子は定番ですよね。ただし、ラッパが登場するのはもっと後の時代なので、今回はお預け)

 

オルガンは教会においても歴史が長く、最古の記録としては757年頃、ビザンツ帝国のコンスタンティヌス5世が、フランク王国のピピン王3世にオルガンを贈ったとされています。

また、同時期のイギリスでも既にオルガンが使われていたと言われています。

 

ただし、当時のオルガンは鍵盤ではなく、巨大なレバーというかボタンというか……ともかくスイッチ的な物を操作して音を出していました。

ボクシングのグローブのようなものを装着して力一杯ボタンを押していたようで、当然これでは旋律を奏でることは不可能です。

よって、もともと積極的には使われていなかったし、使われたとしても開始音や保続音を奏でる程度のことしか出来なかったようです。

 

 

さて、まだまだ解説したいことは沢山あるのですが、例によって続きは後編で。

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