音楽理論 ざっくり解説

音楽理論をざっくり解説します。最低限のポイントだけ知りたい方へ

ジャズの歴史 前編

スポンサーリンク

ジャズの始まりについてはかなりゴチャゴチャしています。

記録が乏しいこともあり、おそらく正確なことは誰にも分からないのではないかと思われますが、一応「19世紀末〜20世紀始めに、ニューオーリンズの売春街でクレオールが始めた音楽」ということになっているようです。

 

売春街と言っても風俗店だけが存在していたわけではなく、バーとかダンスホールとか賭博場なんかも併設されていて、そこで演奏されていた音楽の中の一つということらしいです。

 

また、クレオールとは、本来は「植民地生まれ」という意味らしいのですが、ジャズを語る際には「ヨーロッパ人とアフリカ人の混血」という意味で使われます。

混血なので、当時の黒人のような酷い扱いは受けず、人によってはかなり裕福だったり、高等教育を受けていたりしたようです。

つまり音楽で言えば、楽譜が読めたり、当時の白人音楽を嗜んでいたりしたわけです。

 

ニューオーリンズ・ジャズ

クレオール達は、売春街で白人音楽(ラグタイムとか当時のアメリカ民謡とかヨーロッパ民謡とか)を演奏していました。

 

一方黒人は黒人でブラスバンドを結成し、やはり売春街で(ブルースや黒人霊歌などの影響を受けた)黒人音楽を演奏していたらしい。

なぜブラスバンドなのかと言うと、南北戦争(1861〜1865)の軍楽隊が使っていた楽器のお下がりで演奏していたからです。

黒人ミュージシャンの中には楽譜が読めない人もいたので、彼らの音楽には即興演奏が多分に含まれていました。

 

そんなクレオールと黒人達が、影響し合ったり、お互いのバンドに参加したりする中で、様々な音楽ジャンルの要素が混ざり合って生まれたのが初期のジャズです。


www.youtube.com

これは白人グループによる演奏で、当時のガチのジャズではないようなのですが、まぁともかくイメージとしてはこんな感じです。

 

その後、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したことをきっかけに、ニューオーリンズは軍港となり、音楽どころではなくなります。

当然、売春街は閉鎖。

それに伴いジャズミュージシャン達もシカゴへと移動します。

 

ちなみにこの頃(大正時代中頃)日本でも一部の音楽マニアの間では「なんかアメリカで変な音楽が流行ってるらしいぞ」と話題になっていたらしい。

思いの外、伝来スピードが早いですね。

スポンサーリンク
 

シカゴ・ジャズ

ニューオーリンズとシカゴって1500kmくらい離れているのですが、なぜそんな離れた土地を選んだのかと言うと、その2ヶ所が船で結ばれていたからのようです。

つまり、ジャズミュージシャン達は最初は船上での演奏の仕事をしていたのですが、おそらくその船の終点がシカゴだったのでしょう。

そのため、次第にシカゴに居着くようになったということです。

 

当時はまだまだ黒人・白人の住み分けがはっきりしていた時代ですが、シカゴの白人の中に、ジャズミュージシャン達の音楽に憧れ、自分達も演奏したいと考える若者が現れます。

その若者達による演奏が「シカゴ・ジャズ」です。


www.youtube.com

「やはり黒人の演奏とはちょっと違う」と言われるのですが、私にはよく分かりませんw

 

ちなみに、ジャズミュージシャンに憧れた白人の若者の中に、ある一人のクラリネット奏者がいました。

彼の名はベニー・グッドマン。

 

ラプソディ・イン・ブルー

ちょっとジャズの歴史の本筋からは外れてしまうのですが、この話をしないわけにはいきません。

 

1924年1月3日、新聞に次のような記事が掲載されました。

「2月12日にエオリアンホールで開催されるコンサートに向けて、若手人気作曲家ジョージ・ガーシュウィンが『ジャズ協奏曲』を作曲中」

 

記事を見た当のジョージ・ガーシュウィン本人は寝耳に水。

責任者に電話で確認しましたが「既に記事になってしまったのだから後戻りはできない」とのこと。

仕方なく作曲を開始したガーシュウィンでしたが、なぜか次々アイデアが湧いてきて、数日のうちに曲の枠組みをほとんど完成させてしまいました。

 

しかし当時ガーシュウィンは管弦楽法に精通していなかったこと、また短期間で制作しなければいけないということもあり、オーケストレーションは知人のファーディ・グローフェが担当し、更に自分のピアノパートも間に合わず、当日アドリブで弾くこととなりました。

 

ガーシュウィンの出番はコンサートの最後から2番目。

目新しさのない、似たような曲ばかりで聴衆が退屈しきっていたところに、ガーシュウィンの曲が流れます。

冒頭のクラリネットのグリッサンドが鳴り響いた途端に空気が変わり、曲が終わる頃には観客は大熱狂。

拍手はいつまでも鳴り止まず、ガーシュウィンは何度もステージに呼び戻されてお辞儀をすることとなりました。


www.youtube.com

 

スウィング・ジャズ

閑話休題。

一方その頃、20年代・30年代頃のニューヨークでは、数百人が同時に踊れるような大型のダンスホールがあちこちに存在しておりました。

そのような巨大施設では、当然それ相応の演奏ボリュームが必要とされます。

 

そこで登場するのがビッグバンドです。

今までのような5〜6人規模ではなく、数十人による「楽団」が編成されました。

有名なのはデューク・エリントン楽団や、グレン・ミラー楽団、カウント・ベイシー楽団など。

 

そして忘れてはいけないのが、先程のベニー・グッドマンです。

ベニー・グッドマン楽団は、当時アメリカで急激に普及していたラジオに出演することで、一躍大スターとなりました。

 

ビッグバンドのポイントは「編曲」です。

アドリブではなく、大人数で演奏するために緻密なアレンジによる譜面通りの演奏が主体となりました。

また、レコードの普及により、聴衆がレコードと同じ演奏を求めたのも譜面主体となった一因です。

 

彼らの楽団の音楽は「スウィング」と呼ばれ大流行します。

…と言っても、別にそれ以前のジャズがスウィングしていなかったというわけではなく、単純に当時「ジャズ」という言葉があまり良いイメージでなかったためのようです。


1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、国内の状況も大きく変わります。

 

ダンスホールやキャバレーのような娯楽施設に遊興税が課されることになり、そういった場が激減したこと。

或いは徴兵によりバンドメンバーや男性客が出征したことにより、ビッグバンドはその数を減らしていきました。

 

大ピンチのジャズ。

一体この後どうなるのか、続きは後編で。

www.mie238f.com